◆ 2011年07月  東日本大震災のボランティア

矢浪 裕志


 7月から新しい年度44期に突入いたしました。43期の4から6月期は惨憺たるものになりました。製造会社である我社では商社やブローカーのように続けていく事はこのままでは出来ないようです。

 先日広野町役場で広野工業団地の立地協議会が開催されました。町役場から3人、経済産業省から2人、東京電力から4人を含め30人ほどが集まりました。議題は放射能汚染の正しい知識、富士フィルムのグループ会社による敷地内を測定したデーター等を公表、除染方法の講義など活きた話が聞けました。

 ところで私の知り合いに東日本大震災後ボランティアとしていまだに活躍している友人がおります。参考までにメールを転載させてもらう許可を貰いました。私よりも年長で70代だと思われます。まだまだ世のために人のために行動しております。

私の東日本大震災支援-1

2011.6.1.
石見喜三郎

 元々金で勝負できる人間では無いので「思い」と「汗」でとお役に立てればと思っていましたが、行動するに連れて其れで良いのだと思えてきました。只、初期老人の全てに私のような支援の仕方が良いものか、出来るものかは疑問です。私だから若い連中と「汗」を流して現場作業が出来るのだと自負していますし、私にはこの方法しか無いとも思っています。だから愚妻も文句も言わずにしょうがないかと諦めているのだろうと思っています。一般的には初期老人は金を若者に託して支援に参加するなのだろうと思います。(其れもしない初期老人が多いですが)

 私の周りの友人知人に被災地支援の話を向けてもやれゴルフだのやれ趣味の日と重なっているだのと散々たる情況です。奴もそうだったのかと腹がたつやら情け無く成ったりです。化けの皮はこんな戦時に露呈するものです。平時には見えないものが戦時には鮮明に見えて来ます。

 今回、茨城県はヒヤリングのみ半日、福島県でヒヤリング1日と支援活動2日、宮城県でヒヤリング2日と現地活動13日しましたが、被災の大きさ、悲惨さが素人目にも凄く、私の支援活動が太平洋を針でかき回しているように感じました。しかし、そうは言え誰かがやらなければ一歩も先へは進みません。やりましょうよ心ある者だけでも良いじゃ有りませんか。

 私は当初、延で2、3ヶ月は支援活動をしようと考えていましたが、期限を区切る事の傲慢さと意味の無い事を痛感しました。今は出来る限り(金が続き、健康である限り)続けようと思うように変わりました。被災者宅を整備した後の被災者家族の喜ぶ顔を見ると、一人でも多くの被災者に喜んで貰おうと思います。

 其れにつけても、義援金の無支給、被災場所での家屋建設の可否等の事が全く被災者に伝えられて無い現状は何故なんででしょうか。最終的結果が色々有って無理ならば進捗情況だけでも被災者に公開すべきです。

 6/5の朝からは牡鹿半島の先端近くの戸数70軒弱の給分浜地区へ行きFRPを造っていたが倒壊、流失した造船所を起点にその地区の復旧に汗を掻く事にしました。給分浜は漁村で、ほぼ全滅です。行方不明者がお一人居ますが、その方は造船所の旦那の奥さんの姉さんです。私はヤンマー時代、舶用エンジンの営業をした経験が有り、茨城県、特に千葉県の漁師さんには大変にお世話に成りました。そんな事で漁師のお役に立てればと思っていたので給分浜地区に決めました。何ヶ月かかるか知りません。身体が続く限り成り行き任せです。私の全知全能を捧げる心算です。ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

(参考)
2011.4.29.(金) 北茨城市大津港(大きく被災)、平潟港(被災少)でヒヤリング
2011.4.30.(土) いわき市豊間の鈴木一範宅を9名で整備(整地)
2011.5.01.(日) 石巻市でヒヤリング、宮城ヤンマーへ被災挨拶
2011.5.15.(日) いわき市某宅で砂礫の除去、仲間に良く働く女性あり
2011.5.16.(月) ヤンマー舶用システム㈱島部長に被災挨拶、宮城ヤンマー社長不在
2011.5.17.(火) 石巻・佐々山宅で瓦礫の除去等、昼食に美味い笹かまぼこを戴く、10人
2011.5.18.(水) 石巻・今野宅10人。砂礫の除去。土嚢400袋位出す。
2011.5.19.(木) 佐藤宅4人。瓦礫の除去。ホテルサンルート石巻泊(6500-)
2011.5.20.(金) 同 上6人
2011.5.21.(土) 同 上7人、VCで新潟テレビ21の近藤氏の取材を受ける
2011.5.22.(日) 朝から小雨、活動を休み牡鹿半島へ鈴木 満氏と出会う
2011.5.23.(月) 新沼宅(立派な邸宅)、7人、床下のヘドロ除去、午後から地酒「日高見」一本持ち  鈴木氏を訪問、安藤さんと3人で話す
2011.5.24.(火) 佐藤宅最終。7人、砂礫除去他。19:00から福田氏、新垣君と大いにやる。
2011.5.25.(水) タイヤ洗い(訳の判らない仕事)を途中で止め、塚本宅の砂礫除去、11人
2011.5.26.(木) 一時帰宅の為、5:00にVCにタクシー(1280-)を呼び石巻駅へバス(800-)で仙台へ、仙台~東京がJRの支援で5000-/10800-ですむ

私の東日本大震災支援-その3

2011.6.22.
石見喜三郎

 今回は6/4~16の13日間、石巻市の牡鹿半島へ行って来ました。地図を見れば判るのですが、半島の先端の町・鯨で名高い鮎川町まで石巻の市街地から40km足らずの半島です。

 日常生活レベルの事から話しますと半島には私が知る限り、コンビニが一軒、ガソリンスタンドが二軒しか有りません。食う事で言えば一軒のコンビニで弁当、おにぎり、パン等を買い忘れたり、売切れだったりしたら、その日は食うのを諦めるか、車で35km先の石巻の町まで食べに行かなければ成りません。私は今回、栄養補給を兼ねて2度、中心街に行きました。石巻市は海岸から離れたところ(例えば、石巻日赤中央病院の近辺)はレストラン、コンビ二、コインランドリー、G/S等が有り、通常の生活が出来ていると思います。コンビ二関して話しますと、入荷量(仕入れ量)の多いのには驚かされます。トラックから手押しの台車に載せ換え何度も店へ搬入しています。その利用者の大部分は県外から来ているボランティアと思います。

 生活面で困る事にトイレの汚さ、悪臭の事が有ります。私は車で行っているので仲間の情報をキャッチしてウォシュレットの有る、道の駅『上品の郷い』やコンビ二を利用していますがそうでない人は我慢をして臭く、汚いトイレを使ってるのでしょう。先月、市街地でボランティアをしていた時に使わせて貰っていた道の駅はボランティアセンター(VC)から5km離れていました。その為、充分に余裕を持った便意のお知らせが必要でした。この道の駅は立派な設備を持ち、風呂も併設しています。其処へ行けば洗面も出来、大変有難く利用させて貰いました。その分、混んでいます。

 今回は6/4の18:30頃、立川北口直売会の農家の皆さんの行為でキャベツ40ヶ、大根20本、ネギ、葉物を頂き、これも好意で私を石巻まで送ってくれると言ってくれた小川裕康さんの車に積み出発しました。5日の8:00頃、VCで受付手続きを終え、半島の給分浜へ向かいました。10:00過ぎに、鈴木宅へ着き、野菜と食器の僅かを下ろし、残りを区長の安藤わるさんへ届けました。生野菜の支給は少ないので大変に喜んでくれました。

 此処で、避難所で無い方々(自宅避難者とそれに近い生活者)への物資の支給に関して書いておきます。担い手は自衛隊がやってくれます。日に二度一括して運んでくれます。其れを当番が家族の人数に合わせて仕分けします。例えば、小渕浜地区は20世帯に分けます。一度目は生活物資、二回目はパン、おにぎり、カップ麺。其れの繰り返しです。量的には満たされいてもこの繰り返しでは飽きるのでは無いでしょうか。他に定期的にキリスト系の団体が生もの(魚、肉)を届けてくれているそうです。半島の漁師の震災前の収入は一千万~二千万位有ったそうです。(確認の為、再度ヒヤリングします)

 次に、悲しい話を一つ、私に色々と半島の事を教えてくれる小渕浜の阿部大志さんのお孫さんの事を書きます。高校一年生の息子さんが逃げ遅れて屋根に乗って流され岸に這い上がろうとしたのですが力尽き不明に成ってしまいました。その様子を高台に避難していた人が見ていたそうです。両親、祖父母は必死で死体安置所を探し回ったそうです。両親がご遺体を確認出来たのが4/2でした。後で判った事ですがご遺体が死体安置所へ安置されたのは3/12だったそうです。其れが20日も遅れたのは大震災で正確な情報が取れなかったからだと、ご両親は仰っていました。阿部家は牡蠣、ワカメの養殖で生計を立てていました。船を4隻持っていましたが沖だしして助かったのが2隻。2隻は波に呑まれました。これと養殖の設備を一切合切失ってしまいました。自然現象とは言え、津波は本当に怖いです。小渕浜は震災前は159軒、573人の部落でした。この震災で19人亡くなって、今もご遺体が判らないのが6人だそうです。

 一方、危機一発のところで一命をとりとめた人から聞いた話ですが、藤沢さん(70才位か)は屋根を二つ乗り移り、最後は流れてきた平板に乗り移り、小山へ這い上がて助かったそうです。その間、約20分だったそうです。其れを見ていた人の話ですが、ロープで身体を縛り付け助けに行こうと話合ったらしいですが、流れの余りもの凄さに其れを諦めたそうです。3/11は小雪のチラツク寒い日でしたが、そんな事は全く感ぜず助かった事が何故なのか判らないと私に話してくれました。

 漁業の復旧の事ですが、養殖業は設備に可也の資金が要るためか漁師さんの顕著な動きは有りません。県、国の方針が決まる事が先決と考えているようです。この様な現状では美味しい生牡蠣やワカメを口に出来るのが何時に成るのか判りません。高齢の漁師には廃業する人もいるそうです。逆に、2,3年先には牡蠣が取れると仰る漁師もいます。私としてはそう言う漁師さんのお手伝いをしたいと思っています。1m位沈下した岸壁を直し、海底のガラクタを除去する等、行政が急いでやるべき事が一杯有りますが、これを動かすのは漁師さんの牡蠣をワカメを早く取りたいと思う熱い心だと思います。熱い心が行政を動かすはずです。気の無いところへは公金など使えません。

 ボランティア活動に関してです。6/7~10谷川(瓦礫の殆どが流失している鮫浦湾地区の一つ)で一人で瓦礫を土嚢へ入れる作業をしている所へ6/10、東工大・機械41卒の4人組(代表・小堀さん)が手助けに来てくれました。彼らはJR、日産、日立化成を勤め上げ、2泊3日の日程でVCと絡まない活動でした。泊まりはテントで学生時代を思い起こす楽しい奉仕活動にお見受けしました。一人での奉仕活動の例を一つ、長野県の福泉寺の住職・宮入宋乗さんは車にDVDを映写出来る器具をを積み、半島を5、6ヶ所廻っていました。訪問先はVCに絡まず、お寺関係の流れで決めていたようです。私も寄磯小学校の避難所で「フラガール」を見せてもらいました。選ばれた「フラガール」は炭鉱の復興がテーマ、皆さん、熱心に見ていました。泊まりは車の中で全日程通しているそうです。この二つの例を見て私は身の丈に合った奉仕活動が有ると再確認しました。小堀さん、宮入さんに改めてお礼を申し上げたいと思います。

 最後に、7月7、8日から12、3日位、牡鹿半島へ行きますが、先程述べましたように漁業の復旧はまだまだ先に成りそうです。其れまでの間、子供さんと遊ぼうと考えました。今回は、保育園児にゴム風船、色紙、紙粘土、シール、迷路(紙)等を持って行きつつ、8月に実施したい紙飛行機大会の準備や次に実施したいプラモデル教室、木工教室、絵画教室、寺子屋塾、ラジコン教室、ビンゴ大会などの準備をして来たいと思っています。

 転載が長くなりました。

 新しい年度44期になりましたので、前を向いて張り切って行きます。