矢浪 裕志

 ご案内の通り、未曽有の災難が東北地方太平洋沿岸を埋め尽くしたのが3月11日午後2時46分からでした。工場の部屋にいてラジオの国会中継を聞いておりましたところ、“緊急地震速報強い揺れに注意して下さい”殆ど同時に揺れ始めました。確かに揺れが大きく揺れが収まらないので外に出ました。駐車場に止めてある車が波打つように揺れていて、割れるのではないかと危惧されました。外に出てきたのは5、6人でした。揺れが収まると口々に『こんな揺れは今まで経験した事がない』『死ぬかと思った』など、口々に言い合いました。自宅が心配で各自が電話したが繋がらない。心配なので3時過ぎには全員を帰し、夕方まで一人残りました。電気も水も供給されていましたが、水はバケツに溜めておきました。地震が起きるたびに津波警報が出ていましたが、今回は本当に津波が来ました、それもとてつもない大きい奴でした。山麓線と呼ばれている山道から帰りましたが、四倉では6号線の手前から道路が冠水していて借りている部屋(7階建ての6階)まで車で行けませんでした。図書館の駐車場に置いて濡れないように裏道を教えてもらい、歩いて部屋まで行きました。どうやら津波で冠水したらしく建物自体が真っ暗でした。テレビや電子レンジひっくり返り、食器類が散乱し水も出ませんでした。非常用にとペットボトルに10本ほど(40リットル)ストックしてありました。これはその後大変助かりました。この後も色々経緯があり、四倉高校の避難所にいた息子夫婦と3日間部屋に戻って過ごしました。広野工場には12日は稼動日なので行きましたが地震と津波の被害が大きく、仕事するどころではない事が分り休業にしました。一人だけ既に来ておりましたが事情を話して帰しました。

 そして13日に分った福島第一原子力発電所から20キロ以内、第二原子力発電所から10キロ以内の避難命令です。14日の明け方これ以上四倉にいても出来る事が無いと分り、自宅に帰る事にしました。エアコンも付けず山道では氷点下以下の所もありました。ガソリンスタンドで3回いれ、13時間をついやして我が家にたどり着きました。

 それから2ヶ月近くが経ち、状況が少し分ってきました。短期的にどうする。中期的にどうする。長期的にどうする。この短期が旬単位、中期が1から3ヶ月程度、長期が6ヶ月から1年位のスパンで考えています。

 1次被害の地震、2次被害の津波、3次被害の放射線被爆による目に見えない脅威と対峙している状態です。経営者としてはいつまでも手をこまねいてる場合ではなく、何らかの判断をして決断し実行していかなければなりません。此処が“決断の時”かもしれません。

 海が裂けるような大津波の恐怖を味わったみなさまにはどんな慰めの言葉もありません。言葉よりも今は、被災地の人たちをできる限り支えたいと思います。『なぜあの人は死に、私は生きているのか』と問うと、無常と言う言葉が浮かんできます。先人は自然の猛威に頭を垂れ、耐えてきた。日本人の心のDNAとも呼べる無常の重さをかみしめています。残念な事ですが私たちの力ではみなさんの悲しみを取り除く事はできません。悲しみを完全に共有することはできないのです。でもみなさんに寄り添うことはできる。悲しみを抱えたまま立ち直っていくことはできるのです。それはみさなんと『無常』を受け止めていくことだと思います。朝日新聞に載った宗教学者の山折哲雄の文章です。

 新横浜フジビューホテルで26日電子回路経営改善協議会の神奈川分科会に出席しました。JPCAから大枚の見舞金を頂き御礼を申しておきました。この震災で仕事が増えたところと、減ったところがあり複雑な感慨に陥りました。

 『何事にも時節というものがあり、災難に逢う時には、災難に遭い、死ぬ時には、死ぬのが宜しいのかもしれません。おそらくこの自然の摂理をわきまえて、心を定めていることが、災難というものをのがれる唯一の方法というものかも知れませんね。』これは良寛さんの有名な地震見舞いの手紙です、とても示唆に富んでいてこれからの自分の覚悟を問われています。